歴史の足跡

石城山妙楽禅寺

当寺は臨済宗大徳寺派の寺で、本山は京都紫野大徳寺である。
本尊は釈迦如来、脇侍に文殊・普賢菩薩の安置する。当時の開山月堂禅師は大応国師の法嗣で、大徳寺開山大燈国師とは法の兄弟にあたる。
さて妙楽寺の歴史をふりかえってみると、正に「博多の妙楽寺」という感を一入深める。即ち、武士の帰依によって禅宗が大いに勃興した鎌倉時代に創建され、当時海外貿易の門戸であった博多北浜にあって元、明、朝鮮との交渉深く、歴代住持に渡海の人を多く出し、中国への渡航、帰朝或いは来朝した諸師の宿所となり、又豪邁な気風を以て海外に雄飛した博多商人と関連あり、ひいては博多三商傑の一人神屋宗湛や伊藤小左衛門吉次、同道重が当寺内に眠っている。
戦国時代末期、博多が戦乱の巷となり町家焼失するや当寺もまた共に戦火にかかって伽藍全滅、筑前国が黒田長政治下に移り博多復興されるや、現在の御供所町に替地を賜って中興され、以来江戸時代は黒田藩重臣方の帰依によって法燈を輝かしてきたのであるが、更に昭和二十年大東亜戦争に際し、米軍の大空襲によって福博の大半が烏有するに及び、当寺また市街と運命を共にして本堂庫裡全焼の厄にあっている。中世以後博多の性格を如実に反映し、博多の興亡と運命を共にした寺というべきであろう。

妙楽寺

開創

妙楽寺

鎌倉時代末期、博多の町は袖の湊に連なる大水道によって、沖浜側と丘側の二地域に分かれていた。

元寇の余波未だおさまらず、武装した貿易船が往来し、博多湾一帯の防塁はなお修理が続けられていた。正和五年 (1316年)その沖浜の西北、北浜の石塁をひかえた一帯に一宇の庵が建立され、大応国師の高弟 月堂宗規禅師が開山住持として迎えられた。この寺が妙楽寺の濫觴である。

月堂禅師は弘安八年(1285年)太宰府の生まれで、姓は宗氏。幼い頃より観世音寺に出家得度、顕密の教乗を学ばれたがあきたらず、二十歳の時横岳崇福寺の大応国師の門を叩き、以来随侍して遂に禅法の奥義を大悟、国師より衣鉢を伝えられた方である。

禅師は妙楽寺入寺後、嘉暦二年(1327年)京都に上って洛西の龍翔寺(現在大徳寺内にあり)に住し翌年疾によって当寺に還り、延元元年(1336年)太宰府横岳の崇福寺に住山された。師の法徳を慕う人々はその帰郷を喜び、貞和二年(1346年)北浜の妙楽寺に堂塔伽藍を完備して一大叢林となし「石城山妙楽円満禅寺」の額を高く掲げた。

海浜石塁上に堂々営構された当寺を海上より望むと、恰も石城の如く見えたので、「石城山」と号したと伝えられる。伽藍円成の妙楽寺は官寺として諸山位西海道第二位に列せられている。

その頃当山の佳景を選び、呑碧楼、知足軒、心華室、本来軒、明照庵(後に潮音閣に改む)、怒涛林、三壷島、螺髪岩を石城八景と称した。

妙楽寺

歴代住持

妙楽寺

康安元年(1361年)九月二十七日開山月堂禅師が示寂されて後は、師の法嗣法孫が相次いで住山されている。三世の無我省吾禅師は花園天皇の御子、月堂禅師の法嗣で貞和四年(1348年)三十九歳にして入元、楚石梵琦、南堂清欲、月江正印、見心来復等々諸禅匠に参見、至正九年には五台山に登り、金剛窟に入って佛菩薩の示現を拝して妙戒訣をうけ、中天竺山に心華堂を結び安居されていたが、遂に請をうけて金陵牛頭山に開法された。元にあること十年至正十七年(1357年)八月博多に帰着されたが、月堂禅師の遷化に侍して後貞治二年(1363年)再度入元、金陵牛頭山を再興して住山され、洪武六年(1373年)には明の太祖に請われて宮中に陞座説法、帝の帰依をうけられた。大応国師の塔銘を用彰延俊に需められたのも再入元中のことである。師は洪武十四年(1381年)遂に牛頭山にで示寂され、太祖は「朕、良師を失う」と哀悼し、金餅百錠供えて斎供を資弁し、特に菩薩号を贈った。四世の無方宗応禅師も入元して楚石梵琦に参じ、順宗に召されて宮中に説法をされているし、季潭宗泐に参じた七世恒中宗立、八世石隠宗玙禅師も入明、この二師は遂に明にて示寂されている。無方禅師の説法で当山十二世の無涯亮倪禅師は鎌倉建長寺に開法された方で、応永二十六年(1419年)には将軍足利義持よりの国使として、陳外郎の子平方吉久を副使に従えて朝鮮に渡り、翌年回礼使宋希璟(老松堂)と共に帰朝されている。以上のように当山初期の住持には海外渡航の方が多く、又呑碧楼賦詠の人々は元入、入明の五山の諸禅師、中国の来朝僧が多く、それらの人々の宿所であった。当時海外発展の拠点たる博多津にあって、妙楽寺は中国朝鮮との縁故深いことがうかがわれる。

移転中興

妙楽寺

北浜時代の当寺は志摩郡(糸島郡)桜井、野北、馬場、小金丸、芥屋に七十六町余反の寺領を有し、月堂禅師の法孫が代々住持して禅法を拳揚されていたが、戦国時代末期の天文、永禄の頃戦乱の余波を蒙り、遂に天正十四年(1586年)島津の兵博多に侵入火を放ったので、当寺もまた博多市街と共に全焼してしまった。「妙楽寺諸堂宇も残らず消失す。境地広大四壁もなし難く住持衆徒等仮屋を造り、小屋がけの体にて居住すること十六、七年也。」という状態であった。慶長五年(1600年)黒田長政筑前国主として入国後、北浜の妙楽寺を聖福、承天両寺の間、即ち現在の御供所町に替地、仏殿を建立中興せしめられた。中興は三要宗専和尚(十九世)である。尚以前の妙楽寺の境地は江戸時代に秋月、対馬両藩の蔵本辺りで、もとの妙楽寺町、倉所町を中心とした一帯のようである。
さて御供所町に移転後は、黒田藩治下にあって藩主及び藩の重臣各家の帰依をうける一方、博多商家の外護をうけ次第に禅刹としての結構を備えてきた。即ち寛永年中に藩の家老栗山大膳は梵鐘を寄進、万治元年(1658年)に藩主黒田光之は大門を建立寄進、更に寛文三年(1663年)光之公の次男左兵衛(翆峯宗玉童男)幼逝するや当寺内に立塔、その祠堂の為米三百俵を奉納されている。四代藩主黒田綱政よりは元禄八年に白銀二十枚を下賜、又宝永元年寺領として表粕屋郡箱崎村に一町七反余、那珂郡金平村に二町六反六畝、計三十石六斗余、粕屋郡三苫村に建山三町一反九畝を拝領している。当山二十一世秋嶽和尚代明暦二年(1656年)には、黒田監物夫人志納の銀三十貫を以て客殿が建立され、寛文三年(1661年)には替地直後建立の仏殿を改め、横九間半入六間半の新本堂が造営されている。この本堂が昭和二十年空襲により焼失した本堂である。本堂周辺、墓地参道の土塀もこの頃築かれたものと推定される。